礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2023.6.25 主日礼拝 実を結ぶ人生③「『批判』と『非難』の違い」友納靖史牧師【ガラテヤの信徒への手紙 2章11~21節】(新共同訳 新約P.344~345)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 ローマの信徒への手紙 5章15、18~20節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生124番「この世はみな」1.2.3節
献金感謝
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 2章11~21節
特別賛美 「主はいのちをあたえませり」 聖歌隊
宣教 「『批判』と『非難』の違い」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生495番「主よ み手もて」1.3.4節
頌栄 新生673番「救い主 み子と」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 二つの違いを神学校で教えられました。『批判』は間違いや欠点を正すための肯定的な対話が生じますが、『非難』は相手の間違いや欠点を一方的に責め立て、関係性を破壊するので慎重にと。その視点で「非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました(ガラ2:11)」との箇所を読み解くと、パウロのこの行動はケファ(ペトロ)の信仰姿勢に対する「批判」であり、健全な対話が生まれ、その後エルサレム会議で良き解決へと導かれていきました(使徒15章)。
その頃、初代教会内にはまだ、ユダヤの慣習と律法の影響を受け、外国人(異邦人)は忌み嫌われた存在だとし、食事の席を共にすることさえ避けるキリスト者がいたのは事実です。そこで主なる神はペトロに幻を通し、当時ユダヤ人が決して口にしてはいけないとされた動物類(豚など)が入った袋を天から降ろし、「屠って食べなさい」と語られます(使徒10章)。それを拒否するペトロに、「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはいけない」との声と共に、三度も同じ不思議な幻を見せられました。更に主は、ローマの百人隊長でありながら、主なる神を信じるコルネリウスを訪ねるように示され、その出会いを通してペトロは「神は人を分け隔てなされないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を恐れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです(使10:34)」と異邦人も同じように教会で受け入れる立場に変えられました。このようにペトロは神の啓示を受け、異邦人と食事や交わりを共にしていたのですが、未だ伝統的ユダヤ教の教えを教会にも適応させるヤコブ(主イエスの弟でエルサレム教会の責任者)の影響にある人々が来た時、彼らの顔色をうかがい、異邦人と席を共にすることをペトロは避け、バルナバにまで同じ態度を取るよう促したのです。このペトロの行動に唖然としたパウロは、日和見的信仰を持つペトロを非難する心を持ちつつも、ペトロへの敬意を失うことなく「そのような行動は間違っていると私は思う」とハッキリと批判し対話しました。
私たちも「長い物には巻かれろ」的弱さを抱えています。だからこそパウロはガラテヤ教会員へ手紙で伝えたのです。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる(ガラ2:19b-20a)」と。つまり、罪ある弱きわたし(パウロ)のため、主イエスは身代わりとなって十字架につけられたまま今も苦しみ担っておられる。それ故に、罪あるわたしという存在は既に死んでいて、今生きているのは「罪ある<わたし>」ではなく、「わたしの中に生きておられる聖なるキリスト>であると。これはパウロが後に語った言葉と重なります。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであり…死んだ者は、罪から解放されています(ロマ6:6-7)」。何という驚くべき恵みでしょう。
数週間前、女性を牧師として任命したことで米国南部バプテスト連盟よりある教会が除名処分となりました。日本の連盟は、召命が与えられたなら男も女も関係なく、分け隔てせず牧師として立てられると解釈し、協働する立場にあります。本来バプテストは歴史的に、教理など解釈が一部異なっても、福音宣教協力体として一つとなることを大事にしてきました。相手を非難し切り捨てるのでなく、批判を含めた健全な対話を続け、主が真実を明らかにしてくださることを信じ執り成し祈り関わり合う群れです。ですからパウロのこの叫びを私たちも心に刻みましょう。「わたしは神の恵みを無(駄)にはしません…それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」。そうです「真理は常に伝統に 勝利する」からです。
今日開かれる教会総会を 感謝し祈ります。
「主イエスの貴い十字架の 犠牲と恵みに 基づいて、すべての教会(員)が共に喜び歩めますように。アーメン。」